FC2ブログ
捕獲されました。年貢の納め時というやつ。
2009年10月02日 (金) | 編集 |
■「手紙」 東野圭吾 / 文春文庫

両親を早くに亡くした兄弟は、兄が親代わりとなって働き、生活を支えていた。兄は、学力優秀な弟を大学にいかせるべく、進学資金を貯めようと必死に働いた。しかし、無理がたたって身体を壊してしまう。これからの生活と、進学資金をどうすればいいのか。

思い余った兄は空き巣に入って金を得ようとするのだが、その家には人がいた。もみ合いが、勢いあまり、人を殺してしまう……。

殺人の罪で服役した兄からは、定期的に手紙が届く。どうしているか、元気か、たまには手紙をくれよ──と他愛のない、世間から切り離されている分、お気楽とも思えるような兄の手紙。

しかし、弟はそれどころではなかった。「殺人者の弟」と後ろ指を指されて、友人を失い、アパートを追い出され、まともな就職口はない。失意の生活を送っていた。

それでも必死に生きていると光は差すものだ。ひょんなことから誘われてバンドのヴォーカルになった。ステキな女性と恋もした。

うまく歯車がかみ合いだしたと思う途端、「殺人者の弟」というレッテルが夢をぶち壊す。何も残らない。弟の手は何もつかめないのだ。兄がいるせいで。弟は、兄から届く手紙が、たまらなく疎ましくなっていく──。

映画化もされた小説です。あたくしは映画を先に見てから小説を読んだのですが、なんとも難しいですね。重いテーマであることも一因でしょうが、どうにも、すっきりしないもやもやが心に残ります。

この小説では、仕事先の社長、平野との出会いが重要な場面になっています。弟の考え方を大きく変える人物です。

「差別されて腹を立てるなら、兄を憎めとおっしゃりたいのですね」
「君が兄さんのことを憎むかどうかは自由だよ。ただ我々のことを憎むのは筋違いだと言っているだけだ。もう少し踏み込んだ言い方をすれば、我々は君のことを差別しなきゃならないんだ。自分が罪を犯せば家族をも苦しめることになる──すべての犯罪者にそう思い知らせるためにもね」
淡々と語る平野の顔を、直貴は見返した。これまでにも不当な扱いを受けてきたが、そのことを正当化する意見を聞くのは、これが初めてだった。


差別は当然だ、と平野は言う。大抵の人間は、犯罪からは遠いところに身をおきたい。特に、凶悪犯罪を犯したような人間とは、間接的にせよ関わりあいにはなりたくないものだ。今の君は、お兄さんのせいで、社会性という大きなものを失った状態なのだ。そして、それも犯罪に対する罰のうちなのだ、と。

しかし、と平野は続ける。

「本当の死と違って、社会的な死からは生還できる」平野は言った。「その方法は一つしかない。こつこつと少しずつ社会性を取り戻していくんだ。他の人間との繋がりの糸を、一本ずつ増やしていくしかない」


なるほど、と思うの。対面する相手が殺人者の家族だと聞いて、まったく心が揺れないというのは嘘でしょう。安全を──距離をおくこと──を選ぶのも無理がないことなのかもしれない。

でも、心に引っかかるものがあるの。これは何だろう?

それが明らかになったのは、物語が進んでから。 まだ読んでいない人のために詳しくは書きませぬが、全てを共に背負ってくれる女性と出会うことができた弟は、彼女と家庭をもちます。ところが、差別は家族にまで広がっていく。

悩む弟に平野は、「差別は当たり前だろうね」と平然と言う。

「厳しい言い方をすれば、君はまだ甘えている。君も、君の奥さんもね。(中略)逃げずに正直に生きていれば、差別されながらも道は拓けてくる──君たち夫婦はそう考えたんだろうね。若者らしい考え方だ。しかし、それはやはり甘えだ」


みなは弟に関わりたくないのだが、道徳が差別をためらわせる。その負担を感じさせることは、逆差別だ。 君は、他人に負担を感じさせる存在なのだ。……という意味のことを平野はいいます。

ウーン。平野の言葉にも一面の真理はあるのでしょう。しかし、ここはウンと同意しかねる部分です。

ここに至って、あたくしの心の引っかかりが何だったのか、はっきりしました。

これは道徳の問題ではないと思えるの。平野が言った「君は社会性という大きなものを失った状態だ」という言葉がカギでした。「社会性」が、あたくしにとってのキーワード。

あたくしが敬愛する禅僧、南直哉は、とあるテレビ番組でこう言っています。

「共同体や社会が何かというと、好きな人だけで集まってやっていこうというものではない。人間というのは根本的に共同化されている。誰もが他者の存在を前提にして、自分のありようというものを考えなければならない。それが共同性の根幹だ」

この社会には、あらゆる人間が混淆して生きている。誰にでも、社会から追い出したくなるような価値観の対立する相手はいる。しかし、追い出すことはできない。

これは方法としてできないというのではありません。追い出そうとしたときに、社会は、人間は壊れるのだという共同性の本質的な話として、できない──してはならない──のです。

常に、他者と、場合によっては反社会的な存在とも共存しなければならないのが社会。だからこそ、妥協点を探ることに全力をつくさねばならない。それが共同性、社会性なのだと、あたくしは理解しています。

そして、あたくしたち人間は未熟で、どんなに平穏を願おうと、必ず一定の割合で罪を犯す人は出てくる。自分だって、絶対に罪を犯さないと断言できない。 故意でない、不注意からの事故だって罪の一つなのです。

とすれば、社会は過ちをおかした人たちをどう処遇すべきでしょうか。まして、この小説の弟のように、本人が罪を犯したわけではないのに、家族であるということで、白眼を向けられる人たちをどうしたら?

あたくしには、「お前は甘い、もっと苦しまなければならない、それも家族が犯した罪の報いなのだ」という意見も否定できません。この意見を支持したい人々は少なからずいるはずだから。

しかし、自分たちの扉は安全のために閉じておいて、弟だけに扉を開かせる努力をさせることが社会性なのだろうかと、強い疑問を持ちます。 社会性の問題だからこそ、弟の甘さを指摘して終わらせることに違和感を感じるのです。

社会性とは、どのような状況であれ、一方的なものではないはず。

そうであれば、あたくしたちも荷を背負わなければならないのではないか。手を差し伸べることによって安全が揺らぐかもしれないことに怯えながらも扉を開く、ある意味では苦渋の選択が必要となるのではないかと思えてなりません。

ただ、平野の意見も社会には必要です。それは決して、反面教師にするとかのようなネガティブな理由ではありませぬ。先にも書いたように、平野の考え方を支持する人たちがいる。その必要には、意味があります。

つまるところ、一人一人の人間が完結している必要はない。補い合い、ときには対立の中での均衡で、社会全体のバランスがとれていればいい。というよりも、多様性の保証こそが、唯一の社会のバランスの取り方なのだろうと思います。

昔から言う「捨てる神あれば、拾う神あり」でしょう。

だから、あたくしは甘いかもしれませんが、平野の意見には与できませぬ。

ただし、ここには「本当に拾えるのか?」という厳しい自問がなければならないでしょう。自分ひとりなら、まだいいでしょう。しかし、妻や子供、自分の家族のことを考えても、それでもまだ、手を差し伸べることができるだろうか? 本当に?

この苦い問いこそが、この小説が難しい、一筋縄でいかない理由だと、あたくしは思うのです。
スポンサーサイト




コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック