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捕獲されました。年貢の納め時というやつ。
2009年08月12日 (水) | 編集 |
夏の盛り。今年は天候不順で、強い日差しにさらされることは少ないが、粘りつく湿気に心がいたぶられている。

盆休みでリフレッシュしたいものだが、あたくしの会社ったら、お前なんぞに盆休みはやらねえと言うの。

「文句あるなら、いつでもやめてかまわねえぞ」

まあ、部長ったら、にっこりステキな笑顔でさらりと言ってのけますのね。端正な顔が笑み崩れると、えもいわれぬ愛嬌がある。お若いころは、さぞやご婦人方の心を蕩かしたことでございましょうね。今では、あたくしの心を煮えたぎらせてますけども。

だからあたくしも、それは結構ですね。詳しい話は労基局の人にしてくださいね。穏やかに答えるの。

部長は少しく興醒めした風情。だから、お前はダメなんだ。もっと会社に忠誠心を持たないとなあ。

それはまた難しいおっしゃりよう。いつでもやめていいと言い渡しておいて、いかなる忠誠心を期待しておられるやら。

そう言うな。他愛のない冗談じゃないか。

わあ、冗談でしたか。それは理解できなんだ、あたくしが無粋でした。明日あたり、労基局に相談にいこうと思案してました。失礼しました。

いやいや、冗談冗談。

そうですよね、冗談ですよね。

二人して、ははははと爽やかに笑いあう。

今年入社した若いM井君は、闘気のみでの攻防に馴れていないのか、ちらちらと横目でこちらの様子をうかがっている。気にしなくていいの、いいの。よくあるやりとりだから。はははは。

そんなこんなで、あたくしはますます世の中がつまらなくなり、妄想の世界に逃避している。


高杉(晋作)は病い革まるや、幼な子の東一[とういち]のあたまをなで、
「父の顔をよくおぼえておけ」
と言い、やがて筆をとり、
「面白き、こともなき世を、おもしろく」
辞世の上の句をよんだ。下の句に苦吟していると、看病していた野村望東尼[もとに]が、
「住みなすものは心なりけり」
と詠んだ。高杉はうなずき、
……面白いのう。
と言ってしずかに眠った。それが、高杉の最期であった。

──「竜馬がゆく」 司馬遼太郎



まさに、そんな心持ち。

通勤途中の電車。迂闊にも読みかけの本を家に置き忘れてきた。活字中毒なものだから落ち着かない。車内広告を百回も二百回も読み直して、心をごまかす。

あたくしは、ドア横の手すりの位置に立っている。電車内は、ほどほどの込み具合。電車が、とある駅に停車した。ドアが開いたと同時に、あたくしの横に立つ女性が、びくっと身体を振るわせた。

しまった、また独り言つぶやいたかしら。ドキリとするが、さにあらず。女性の視線の先を追うと、若い男が立っていた。

男の顔には、満面の笑み。

目じりを下げて口をぱっかりと開け、今にも「ハハハハ!」と豪快な笑い声が飛び出してきそうな表情。しかし、そのまま笑うでもなく、笑顔をおさめるでもない。顔面だるまさんが転んだ遊びでもしてるのであろうか。

この人、おかしいわ!

おっさんのあたくしですら、怯えがきた。若い女性ならば、なおさら恐怖を感ずることであろう。

男が電車に乗り込んでくるにあわせて、若い女性は、男と距離をとろうとした。結果として、あたくしに接近することとなり、女性から、ふんわりと良い香りが漂う。わあい、でかした笑顔マンよ。もっと豪快に笑うといいよ。

手持ち無沙汰であったあたくしは、遠慮なく男を観察させてもらうこととする。

笑顔マンは笑顔で窓の外を見つめたまま、視線は動かさない。顔の筋肉が疲れるのか、数分に一度、表情が真顔に戻る。歳のころは25前後。真顔はごく普通の顔立ちで、異常さは感じられない。

やがて、ひくひくと口元を震わせたかと思うと、また、ぱかっと笑う。それを繰り返している。この人は、何者であろうか。天然記念物に登録すべきではなかろうか。それとも、某病院の入院患者リストに加えたほうが? 黄色い救急車を呼ぶべき?

不思議ないきものだなあ。おもしろいなあ。

と、思っていたら、まずいぜ、きたぜ。

以前にも書いたけど、笑いは伝染するものである

あたくし、とくに伝染しやすい体質。誰とも知れぬ笑顔を、ぼんやりと想像をするだけで、腹の筋肉が震え始めてしまうの。おかしいことなど何一つないはずなのに笑いが止められない。箸が転がってもおかしい年頃なのね。きゃ、精神が若いのだわ。なんかの病気とか言うな。

笑顔マンの笑いにつられて、あたくしの頬がゆるみ始めた。必死で我慢するが、だめだった。

電車が駅に止まり、ドアが開いた。想像してみよ。

ドアの右側に満面の笑みの男。左側に、上目遣いで、にやありと糸を引きそうなこわばらせた笑みを浮かべた男。電車のドアを守る、笑顔の金剛仁王様。

笑顔マンが阿形であり、あたくしが吽形。阿吽は、宇宙の始まりと終わりを表す言葉であるとされている。あたくしたちの場合、笑顔で表現しているのは、人生の始まりと終わりであろうか。

ドアが開くと同時に、女性が電車を飛び降りて逃げた。わあ、逃げないで逃げないで、通報しないで通報しないで!

わーん。
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