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捕獲されました。年貢の納め時というやつ。
2008年10月31日 (金) | 編集 |
ああもう、朝の通勤電車は、どうしてこうも込みあってるのだろうか。おっさんと身体が密着する不愉快さといったら、ないぜ! ふざけんな、おっさん臭いぜ、死ね!

……と、若い頃のわたくしは、なんの疑いもなく思っていた。なんで朝から、こんなに脂ぎってるのだろうかと、遠慮のない視線でおっさんの疲れた皮膚を見つめていたこともあった。

が、いまやわたくしも、日々の生活に疲れ果てたおっさんの仲間入りを果たした。立場が変わった、この頃では、若いうちは分からなかった「密着される辛さ」に気がつくようになった。

気づかぬうちに加齢臭を撒き散らしてるのではないか、横の女性に不愉快な思いをさせているのではないか。あれやこれや想像すると、いてもたってもいられず、
「申し訳ございません! 生きててすみません!」
と、絶叫したくなる。

おっさんとて、なにも若い女性に臭さを知らしめたくて密着してるのではない。おっさんも辛いのである。できれば、ほっといてほしいのである。月の砂漠をはるばると旅のらくだがゆきました、のように無人の荒野を気ままに出勤したいのである。嗚呼、知りたくなかった、こんな気持ち。

さて、今日も満員電車に乗り込んで、胃の痛くなる通勤時間を過ごさねばならない。やだわやだわ。

ある停車駅でドアが開いた。そこに立っていたのは、奇妙なおっさんであった。

年のころは、わたくしよりも十ほど上だろうか。おっさんは、口をぱっかりと開いて、虚空を見上げていた。表情は眉根を寄せて、今にも泣き出しそうな、切なげな風。たったいま取り返しのつかない失敗を犯して、「ああああ……」と悲嘆の声をあげる直前……のような雰囲気である。

なにごとか。わたくしだけでなく、周囲の乗客が、おっさんに異様な気配を感じて、身体を硬くしたのが分かる。

おっさんは、腰を落として大またに足を開いていた。相撲の四股に近い体勢だと思えばいい。片手に鞄を抱え、もう片手は後ろに廻している。なんと、おっさんは尻の辺りを押さえているのだった。

おっさんは、表情も姿勢も変えないまま、蟹のように足だけを動かして電車に乗り込んできた。乗車口に近い客が少しでも奥に逃れようとして、ぐいぐいと身体を押し込んでくる。ものすごい圧力だ。

電車が動き出すと、おっさんは揺れに敏感に反応して呼吸を切迫させ、あやしく腰をくねらせる。どうやら、尻の搦め手口に攻め寄せてくる軍勢がある様子だ。おっさんは、落城を防がんと、必死の防戦に努めているらしい。

不思議なもので、身じろぎもできないほどの満員御礼状態だったのに、おっさんの周囲にぽっかりと空間が空いた。

おっさんは声こそたてないが、ハッ、とか、フッ、とか、短い吐息を洩らし、尻を押さえる手に力を込めていた。城門が今にも打ち破られそうな、切羽詰った状況であることを周囲に知らしめた。

だめ! こんなところで落城したら、だめ! 頑張って! 援軍は遅れないけど、頑張って! この場合の援軍ていうのは、共に手を携えて尻の搦め手口を押さえてあげることになろうか? あら、やだ、絶対無理だわ! 独力で頑張って!

わたくしは内心で必死におっさんに声援を送った。人々は、苛立ちまぎれに舌打ちやら、溜め息やら、冷たい視線やらを放って無言の批判をこころみるが、意も介さないおっさん。

緊迫の数分がすぎ、電車は次の停車駅に止まった。ドアが開いた。ああよかった、間に合った。と、誰もが密かに安堵しただろう。ところが、おっさんは電車を降りようとしない。相変わらず、切ない表情で、足をがに股に開き、尻を手で押さえている。ドアが閉まり、電車は動き出した。

えー、なぜだ!

若い男が、ひときわ強い舌打ちとともに、「降りろよ」とつぶやいた。若い女性は、心底うんざりした嫌そうな表情で下を向いている。

皆は、混乱しただろうが、わたくしは閃いたものがあった。若造はたぶらかせても、おっさんの目はごまかせない。こちとら、だてに、歳月を重ねてはおらぬ。ぼくの人生これでお仕舞い! と、人生を投了する一歩手前の腹痛を何度経験したことか。

おっさんの顔をよっく観察するがいい。表情こそ危うげではあるが、実に血色がよく、冷や汗一つかいておらぬ。隠しきれない生理反応が、一つも見受けられない。擬態である。

さては、満員電車の窮屈さを嫌い、周囲に空間を作るの策であるな? そして策は見事に当たった。おっさんは、「もれそうです」とは一言も言っておらず、いわば、周囲が勝手にそう理解しているだけのこと。おそるべき知恵者。孔明か張良の再来と言ってもよかろう。

そして、そんな現代の英雄の姿を記録する、わたくしは司馬遷の再来。司馬遼太郎のペンネームが、「司馬遷に遼か及ばず」の意味であることは、よく知られている。司馬遼太郎にも更に及ばないわたくしは、どんなペンネームがよかろうか。

そんなことを考えていると、満員電車の辛さも少しは和らような気がした。目の前では相変わらず、おっさんが苦しげな表情で荒い呼吸を繰り返している。わたくしが降りる駅までは、あと15分。日本の非人間的な通勤ラッシュは、理性を破壊すると強く実感したのであった。
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コメント
この記事へのコメント
こんばんは!
下品シリーズですみません。
でも、ノンフィクションだったりします。
世の中は、怖いであります。
さらにすごい男の話もあるので、そのうち公開しますわん。

言葉として自然なのは「擬装」の方でしたかねえ。
浮かんだ言葉の方を使ってみちゃいました。
うひやひや!
2008/11/01(土) 01:29:52 | URL | たれぞう #/blqkyuM[ 編集]
フィクション?

>非人間的な通勤ラッシュ
同感です!1票

「擬態」か~、「擬態」ね。ふむふむ

勉強になりました。
2008/10/31(金) 23:50:57 | URL | ミユウ #-[ 編集]
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