2011年12月07日 (水) | 編集 |
Hという男性が、十年近く前に体験した話。
彼女とドライブに出かけた。気持ちのよい快晴。彼女は上機嫌で、Hの他愛ない冗談にも笑い転げてくれる。
ある交叉点にさしかかったところで、信号が黄色から赤に変わった。ゆっくりと車をとめる。
お婆さんが一人、歩道を渡っていく。
(あれ?)
交叉点に近づいているとき、左側の歩道に信号待ちをしている女性が立っているのを見ていた。いつのまにか、その女性がいない。周囲を見回しても、それらしい姿がない。
「いま、そこに女が立ってなかった?」
なんの気なしに彼女に聞いた。ところが、さっきまで笑顔だった彼女は、表情をこわばらせてうつむいており、口を開かない。
「どうしたの?」
「やめて!」
おもわぬ金切り声が返ってきた。普段、こんな声をだす女性ではない。
「青になったよ! 早く出して!」
信号が青に変わっている。早く、早く、と彼女に急き立てられながら、車を発進させた。
彼女はちらちらとサイドミラーに視線を送り、後ろを気にしている様子だったが、ようやくホッとした様子で全身の力を抜いた。
「何かあったの?」
あらためて訊くと、彼女は気がすすまない様子で、こう答えたのである。
彼女も信号待ち風に立っている女を見ていた。とくに気にもとめなかったのだが、よそ見をして視線を外した隙に女が消えた。
驚いて、あちらこちらと女を探すが、いない。隠れられそうな場所もない。よそ見といっても、一秒か二秒。これほど忽然と姿が、かき消えるはずがなかった。
(こわい)
彼女にしてみれば、車がとまった位置の助手席は、女が立っていた場所の目の前。姿の見えない女に、じっと見つめられているような気がする。恐ろしくてたまらない。早く信号が変わってくれないかと、そればかりを願っていたのだという。
「気のせいかもしれないけど……」
とつぶやく彼女に、Hは、どんな服だったか覚えているか訊ねた。
ちゃんと見ていたわけではないけれど、鮮やかな赤い色を着ていた気がする。と、彼女は言う。
そうだ。Hも赤い色が目について女を覚えていたのである。
Hの言葉に、彼女は顔色を曇らせた。だが、二人とも幽霊話は大の苦手。怖いからいいよ、もう忘れよう、移動しただけかもしれないしさ。そんな会話をかわしたのだという。
ところが、Hの周囲におかしな現象が起こるようになった。
Hは、Mという男の友人とハウスシェアで暮らしていた。
交叉点で変な女と出会ってから、しばらくしたある日、同居人のMが、
「どうも、おかしいんだよな」
と言った。家の中で女の気配がするのだという。
寝ていると部屋のふすまが開き、誰かが入ってきた。夢うつつの中で「Hがきた」と、おもった。じっと、Mの顔をのぞきこんでいる気配がする。しばらくしても部屋を出てゆく様子がない。
気味が悪いから「なんか用か」と声をかけようとして目を開いた。
その瞬間、枕元に立って自分を見下ろしている女の顔と、たれ下がる長い髪を見た。驚いて「うお」と、声にならない息を吐き出した。あらためて目を見開いたときには、なにもいなかったのだという。
部屋は明かりを消して真っ暗だったから、見間違いかもしれないし、寝ぼけて夢のつづきを見たのかもしれない。でも見た気がするんだよなあ。Mは、しきりに首をひねる。
「やめてくれよ、気のせいだよ、そんなの」
Hは臆病で、幽霊など大の苦手。懇願するように言ったが、
「実は、一度だけじゃないんだよ、そういうの。お前は何か感じない?」
と訊かれ、腹の底から震えがきた。
また、会社の先輩が遊びに来て酒盛りをし、泊まっていったあくる朝のこと。
まだ早い時間だというのに、先輩に叩き起こされた。先輩は真っ青な顔で、ふるえながら、
「この部屋、普通じゃねえぞ」
と言う。
したたか酔っ払い、いい気分で眠っていた夜中すぎ。眠りが浅くなった。ふっと女の体臭が匂った。
(おや?)
と、おもう間もなく、強烈な金縛りがきた。指一本動かせず、声も出ない。
先輩の身体の真横に人の気配があらわれ、ぐぐっと、のしかかるように体重をあずけて顔をのぞきこんでくる。身体の柔らかな感触が女のものだった。
「うふふふ」
息づかいとともに、かすかな笑い声がした。この家は男所帯。酒の席に女性は呼んでいない。いるはずのない女だった。
(こいつ、やばい!)
先輩は、たまらず心の中で悲鳴をあげた。
(ファッ×・ユー! ファッ×・ユー!)
必死で、お経代わりに叫んだが、女は退散しない。結局、日がのぼって明るくなるまで金縛りはとけず、耳元で「うふふ」と、笑われつづけたのだという。
「お前、この部屋、よく平気だな」
先輩に言われたが、H自身には、さっぱりなにも起こらない。しかし、二人の話を聞いたあとで考えてみると、このごろ妙に物音が耳についていた。
バイク好きのHは、家の外にバイクの部品を積んで置いてある。ある夜、激しい音がしたので見に行ってみると、どういうわけか部品の積み方が変わっていた。
バタバタと人が騒ぐ気配がするときもあった。バイクにイタズラされと困ると、様子を見に行くが誰もいない。気のせいかもしれないが、薄気味が悪い。いやだなあと、おもっていた。
おまけに、この頃から体調を崩すようにもなった。
発熱が幾日も続く。ときには意識朦朧となるほどの高熱で、同居人のMが慌てて病院に担ぎこむことが、たびたびあった。
入院して検査を繰り返しても原因が分からない。退院を許されて帰宅するのだが、しばらくすると、また高熱が出て寝こむ。あまりに続くものだから、担当の医師から、
「エイズじゃないですかね。身に覚えありませんか」
と、耳打ちされた。
会社も休みがちになり、気持ちがくさる。
気晴らしをしようと、体調が落ち着いた時期を見はからい、気心しれた仲間を集めて出かけたツーリングで、Hは大事故を起こしてしまう。
渋滞してる道路だった。ずらりと並んだまま動かない車の横を抜けて進んでいく。
と、Hの目の前でドアが開いた。
ブレーキをかけたが間に合わず、バイクはドアに突っ込んだ。Hの身体は投げ出され、数メートル宙を飛んで、ミサイルのように頭から地面に突きささった。首がゴキゴキゴキと、いやな音をたてたところで、Hの記憶は途絶えた。
目が覚めると病室。
面会謝絶、絶対安静。
死んでいてもおかしくなかったと医師は言った。Hはベンチプレス120kgをあげるほど身体を鍛えることに熱心な男で、分厚い筋肉が首を守ったのだろうという話だった。
身動きができないように身体を固定された状態が続いたが、ようやく面会を許されたとき、まっさに号泣しながら駆けつけたのがHとドライブに出かけた彼女だった。彼女は、二日と間を置かずに病室を訪れ、甲斐甲斐しく世話をしてくれた。
Hは彼女にたいする愛情がつのっていくのを感じていたという。
やがて退院が許されたが、しばらくは、あまり身体を動かさないよう生活することを指示された。
やることがないものだから、自然と、世話をしにくる彼女と愛を交わすようになった。はじめは身体に悪いと怖がる彼女に、
「じゃあ、君がやってくれ」
と、破廉恥な技をいろいろと教えこみ、Hは寝たままの楽な姿勢でたっぷりと快楽を堪能したという。
そんなことを繰り返しているうちに、彼女が妊娠し、結婚。
気がつくと、原因不明だったHの体調不良はすっかり消えており、Hの周囲で起きていた気味の悪い出来事もぴたりと出なくなっている。
さすがのお化けも呆れたのか、負けを認めて帰っていったのだろうか。
「やっぱり愛だよ。愛が一番強いね」
Hは、さわやかに言いはなった。家族は今も幸せに暮らしている。
彼女とドライブに出かけた。気持ちのよい快晴。彼女は上機嫌で、Hの他愛ない冗談にも笑い転げてくれる。
ある交叉点にさしかかったところで、信号が黄色から赤に変わった。ゆっくりと車をとめる。
お婆さんが一人、歩道を渡っていく。
(あれ?)
交叉点に近づいているとき、左側の歩道に信号待ちをしている女性が立っているのを見ていた。いつのまにか、その女性がいない。周囲を見回しても、それらしい姿がない。
「いま、そこに女が立ってなかった?」
なんの気なしに彼女に聞いた。ところが、さっきまで笑顔だった彼女は、表情をこわばらせてうつむいており、口を開かない。
「どうしたの?」
「やめて!」
おもわぬ金切り声が返ってきた。普段、こんな声をだす女性ではない。
「青になったよ! 早く出して!」
信号が青に変わっている。早く、早く、と彼女に急き立てられながら、車を発進させた。
彼女はちらちらとサイドミラーに視線を送り、後ろを気にしている様子だったが、ようやくホッとした様子で全身の力を抜いた。
「何かあったの?」
あらためて訊くと、彼女は気がすすまない様子で、こう答えたのである。
彼女も信号待ち風に立っている女を見ていた。とくに気にもとめなかったのだが、よそ見をして視線を外した隙に女が消えた。
驚いて、あちらこちらと女を探すが、いない。隠れられそうな場所もない。よそ見といっても、一秒か二秒。これほど忽然と姿が、かき消えるはずがなかった。
(こわい)
彼女にしてみれば、車がとまった位置の助手席は、女が立っていた場所の目の前。姿の見えない女に、じっと見つめられているような気がする。恐ろしくてたまらない。早く信号が変わってくれないかと、そればかりを願っていたのだという。
「気のせいかもしれないけど……」
とつぶやく彼女に、Hは、どんな服だったか覚えているか訊ねた。
ちゃんと見ていたわけではないけれど、鮮やかな赤い色を着ていた気がする。と、彼女は言う。
そうだ。Hも赤い色が目について女を覚えていたのである。
Hの言葉に、彼女は顔色を曇らせた。だが、二人とも幽霊話は大の苦手。怖いからいいよ、もう忘れよう、移動しただけかもしれないしさ。そんな会話をかわしたのだという。
ところが、Hの周囲におかしな現象が起こるようになった。
Hは、Mという男の友人とハウスシェアで暮らしていた。
交叉点で変な女と出会ってから、しばらくしたある日、同居人のMが、
「どうも、おかしいんだよな」
と言った。家の中で女の気配がするのだという。
寝ていると部屋のふすまが開き、誰かが入ってきた。夢うつつの中で「Hがきた」と、おもった。じっと、Mの顔をのぞきこんでいる気配がする。しばらくしても部屋を出てゆく様子がない。
気味が悪いから「なんか用か」と声をかけようとして目を開いた。
その瞬間、枕元に立って自分を見下ろしている女の顔と、たれ下がる長い髪を見た。驚いて「うお」と、声にならない息を吐き出した。あらためて目を見開いたときには、なにもいなかったのだという。
部屋は明かりを消して真っ暗だったから、見間違いかもしれないし、寝ぼけて夢のつづきを見たのかもしれない。でも見た気がするんだよなあ。Mは、しきりに首をひねる。
「やめてくれよ、気のせいだよ、そんなの」
Hは臆病で、幽霊など大の苦手。懇願するように言ったが、
「実は、一度だけじゃないんだよ、そういうの。お前は何か感じない?」
と訊かれ、腹の底から震えがきた。
また、会社の先輩が遊びに来て酒盛りをし、泊まっていったあくる朝のこと。
まだ早い時間だというのに、先輩に叩き起こされた。先輩は真っ青な顔で、ふるえながら、
「この部屋、普通じゃねえぞ」
と言う。
したたか酔っ払い、いい気分で眠っていた夜中すぎ。眠りが浅くなった。ふっと女の体臭が匂った。
(おや?)
と、おもう間もなく、強烈な金縛りがきた。指一本動かせず、声も出ない。
先輩の身体の真横に人の気配があらわれ、ぐぐっと、のしかかるように体重をあずけて顔をのぞきこんでくる。身体の柔らかな感触が女のものだった。
「うふふふ」
息づかいとともに、かすかな笑い声がした。この家は男所帯。酒の席に女性は呼んでいない。いるはずのない女だった。
(こいつ、やばい!)
先輩は、たまらず心の中で悲鳴をあげた。
(ファッ×・ユー! ファッ×・ユー!)
必死で、お経代わりに叫んだが、女は退散しない。結局、日がのぼって明るくなるまで金縛りはとけず、耳元で「うふふ」と、笑われつづけたのだという。
「お前、この部屋、よく平気だな」
先輩に言われたが、H自身には、さっぱりなにも起こらない。しかし、二人の話を聞いたあとで考えてみると、このごろ妙に物音が耳についていた。
バイク好きのHは、家の外にバイクの部品を積んで置いてある。ある夜、激しい音がしたので見に行ってみると、どういうわけか部品の積み方が変わっていた。
バタバタと人が騒ぐ気配がするときもあった。バイクにイタズラされと困ると、様子を見に行くが誰もいない。気のせいかもしれないが、薄気味が悪い。いやだなあと、おもっていた。
おまけに、この頃から体調を崩すようにもなった。
発熱が幾日も続く。ときには意識朦朧となるほどの高熱で、同居人のMが慌てて病院に担ぎこむことが、たびたびあった。
入院して検査を繰り返しても原因が分からない。退院を許されて帰宅するのだが、しばらくすると、また高熱が出て寝こむ。あまりに続くものだから、担当の医師から、
「エイズじゃないですかね。身に覚えありませんか」
と、耳打ちされた。
会社も休みがちになり、気持ちがくさる。
気晴らしをしようと、体調が落ち着いた時期を見はからい、気心しれた仲間を集めて出かけたツーリングで、Hは大事故を起こしてしまう。
渋滞してる道路だった。ずらりと並んだまま動かない車の横を抜けて進んでいく。
と、Hの目の前でドアが開いた。
ブレーキをかけたが間に合わず、バイクはドアに突っ込んだ。Hの身体は投げ出され、数メートル宙を飛んで、ミサイルのように頭から地面に突きささった。首がゴキゴキゴキと、いやな音をたてたところで、Hの記憶は途絶えた。
目が覚めると病室。
面会謝絶、絶対安静。
死んでいてもおかしくなかったと医師は言った。Hはベンチプレス120kgをあげるほど身体を鍛えることに熱心な男で、分厚い筋肉が首を守ったのだろうという話だった。
身動きができないように身体を固定された状態が続いたが、ようやく面会を許されたとき、まっさに号泣しながら駆けつけたのがHとドライブに出かけた彼女だった。彼女は、二日と間を置かずに病室を訪れ、甲斐甲斐しく世話をしてくれた。
Hは彼女にたいする愛情がつのっていくのを感じていたという。
やがて退院が許されたが、しばらくは、あまり身体を動かさないよう生活することを指示された。
やることがないものだから、自然と、世話をしにくる彼女と愛を交わすようになった。はじめは身体に悪いと怖がる彼女に、
「じゃあ、君がやってくれ」
と、破廉恥な技をいろいろと教えこみ、Hは寝たままの楽な姿勢でたっぷりと快楽を堪能したという。
そんなことを繰り返しているうちに、彼女が妊娠し、結婚。
気がつくと、原因不明だったHの体調不良はすっかり消えており、Hの周囲で起きていた気味の悪い出来事もぴたりと出なくなっている。
さすがのお化けも呆れたのか、負けを認めて帰っていったのだろうか。
「やっぱり愛だよ。愛が一番強いね」
Hは、さわやかに言いはなった。家族は今も幸せに暮らしている。
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