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捕獲されました。年貢の納め時というやつ。
2007年08月12日 (日) | 編集 |
イーストウッド監督の作品は、すっきりした終わり方をしない。主人公が救われないで終わる作品も少なくない。また、良い人、偉い人、尊敬されるべき人が主人公になることは少ない。

それは、監督の描く主題である「絆」が、作品の登場人物同士の絆を描くだけに留まらず、そこから後に続く誰かの視線が意識されているからだ、とぼくには思える。

たとえば、「ミリオンダラー・ベイビー」では、フランキー(イーストウッド)と、弟子入りした女ボクサー、マギーとの絆を描く。同時に、作品の結末では、モーガン・フリーマン演ずるエディが、フランキーの娘に「きみの父親は、こういう男だった」という手紙を書いて伝える独白で終わる。

成功した人生、素晴らしい人生、美しい人生だけが、次の誰かに残るのではない。残された何かをどう受け取めて消化するのかは、受け止める側の資質や器の大きさにも関わってくる。一言で言えるようなものでなく、「何か」としか表現しようのない重い贈り物だろう。

そして、「硫黄島からの手紙」。

素晴らしい映画だった。残念ながら、都合がつかずにスクリーンでみることが出来なかったのが、今でも悔いが残っている。

この映画には強い批判があることも知っている。アメリカ側から描いた視点で、描かれていないことが多すぎる、とても硫黄島の戦いの実情から遠いというわけだ。

たしかに、「硫黄島からの手紙」には描かれていない事実はたくさんあるだろう。爺さんたちの苦しみは、こんなものではなかったという意見は、当たり前だ。

忘れてはならないのは、この映画はフィクション。あの戦いをよく調べてはいるが、フィクションだということ。

フィクションとドキュメンタリーは違う。事実をして語らしめるのがドキュメンタリーならば、フィクションでは、主題を強調するために脚色が加えられる。現実の出来事を題材にとった場合、史実とかけ離れすぎては現実味が失せるから、史実とつかず離れず物語は進められるにしても、事実に大ナタが振るわれる。省くところはごっそりと省き、膨らませるところは、たとえば架空のエピソードを挿入するなどして、大きく膨らませることになる。

もともと、そういうものなのだから、フィクション作品に向かって「事実と違う」と指摘するのは、ハナからお門違いだ。

では、フィクションは半分作り事だから見る価値はないかというと、そんなことはない。イーストウッド監督の訴えたかった主題は、十分すぎるほど描かれている。

単純に言うと戦争の悲惨さなのだが、なぜ悲惨なのかというと、日本人もアメリカ人も、普通の人々が殺しあったからだ。戦いが好きなわけでも、残虐なことが好きなわけでもない。市井の穏やかな人々。

後世に生きるぼくたちは、あの戦争が起こった経緯を知っているし、多面的な角度から評価することができる。ともすれば歴史や政治の流れで、あの戦争を語りがちになる。じいちゃんたちの犠牲を、意味で味付けしたくなる。避けられない戦争だったとか、意義があったとか言うのは簡単だ。

でも、その前に、じいちゃんたちが感じていた恐怖、望郷の思い、絶望や無念、痛みをこそ、まず見たほうがいい。意味が付け加えられる前の、ありのままの苦しみを感じておいたほうがいい。

意味なんか後からいくらでも付け加えられるし、その時代の空気をリードする意見によって操作されることもある。でも、じいちゃんたちが感じた生の苦しみは、そのまま、そこにある。

イーストウッド監督は、いよいよ島の戦いが絶望的なった作品のラスト近く、司令官栗林中将(渡辺謙)が、生き残りの将兵で総攻撃をかけることを決意したときに、こう訓示させる。

「日本が戦に敗れたりといえど、いつの日か国民が、諸君らの勲功を讃え、諸君らの霊に涙し、黙祷を捧げる日が必ずや来るであろう」

栗林中将の周囲に集まって、訓示に聞き入る兵たちが写しだされる。彼らが見つめているのは栗林中将だが、同時に彼らの人生を受け取る、ぼくたちを見ている。

イーストウッド監督は、この映画でも、絆を描いてみせたのだとぼくは思う。後世に生きるぼくたちに、「きみたちの父や祖父は、こういう人間たちだった」と、静かに語っているだけなのだ。イーストウッド監督は、届かなかった硫黄島からの手紙を届けにきてくれた郵便配達員なのだ。

ミクシイのコミュニティでも、他の映画レビューでも、過去を勉強しようと思います、と書いた人が多かった。

ぼく自身は戦争の本をいろいろ取り混ぜて、千冊は読んだ戦争マニア。だけど、これから戦争のことを知りたいと思う人がいたら、一冊か二冊の本で十分だ。NHKのドキュメンタリーを何本か見て、納得できればそれでいいと思う。

どんなに過去を勉強して、祖父母たちの苦しみを知ったところで、伝聞だ。勉強を深めて情報が多くなれば、少しずつ苦しみの核に近づくことができるだろう。だが、結局は、知っているというにすぎない。想像はできても、同じ体験はできない。

知らないよりは、知っていた方がいいのは間違いないから、勉強をするなとは言わない。

でも、たくさん勉強をした結果が、勲章や飾緒は違う、あれもこれもそれも史実と違うからダメだ日本を馬鹿にしている、なんてあげつらうオタクに成り下がることだったら、そんな勉強はしないほうがいい。

この映画をみて興味が出たら、ほんの少し本を読み、祖父母の苦しみを知って、「じいちゃん、ばあちゃん、大変だったね。お疲れ様。ありがとうね」と、心の中でお礼を言えばいいのだ。

祖父母たちは「うんうん」と頷きながら、「ほれ、そんなことより、もっとちゃんと前を見ろ。子供の手をしっかり引いて歩け」と言ってくれるに違いない。

過去から受け取った絆は、ぼくたちのところで止まるわけじゃない。これから先も、つながって続いていく。受け取ると同時に、次に渡す役目を背負う。

いつの日か、「こういう人間だった」と、ぼくたちが語られる番になる。その時まで、頑張って生きてればいい。良いことも悪いこともあるだろうけど、いいじゃない。

先人たちは、そうやって生きてきた。ほくたちも、そうやって生きていく。そして、ぼくたちの子供たちも、同じように生きていくはずだから。

そういうことを思わせてくれた、この映画。ぼくは大好きだった。
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